蒲郡市の大半は三方を山でかこまれ前は三河湾に面し私達のふるさと三谷はその東部に位置します。
海岸線にそった平坦地に人家が密集し町の発達とともに海の埋立地からついで山手へと次第に伸びています。
気候温暖、風光明媚、東海の景勝地として古くから知られています。
遠く律令時代には「倭名抄」に宝飯十三郷のうちに美養郷として書かれています。 中世に至って蒲郡地方は諸神領にわかれ、形原が関白、赤日子は熊野、大塚は伊勢、わが三谷は熱田神宮の神領になったと考えられます。
徳川時代になって西ノ郡藩に属し明治維新後三河県、伊那県を経て明治4年の廃藩置県によって額田県に変わりましたがあくる明治5年に愛知県となりました。
明治27年12月10日町制を施行し昭和29年4月1日合併して蒲郡市となりました。
一方三谷町内においてはすでに徳川初期に東新屋、松葉、上ゲ、中浜、中屋敷、西新屋の各嶋(部落)に分かれておりこれが現在の東、松、上、中、北、西の6つの総代区となりました。
================================================================ 現在我が第2分団は3つの班に分かれ、各班の車両と器具庫は、、、 1班(東区・松区)・・・弥生公園 2班(上区・中区)・・・東部市民センター横 3班(北区・西区)・・・三谷水産高校前 ================================================================
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財産区全景ここは三谷町鳶欠、南山、元ゴミ焼却場跡地あたりにかけての山側です。もう10年以上も前になりますか、、、一連の放火が発生し、以来、私達第2分団はここを、見まわり警戒の重点区域とし毎月1回、12月から3月にかけては月3回の見まわり警戒を行っています。
もう一つ三谷町財産区の中で三河大島という沖合い約4キロの場所に浮かぶ島(現在は無人島)があります。いつの頃から三谷町に属したかはハッキリとした記録がないそうです。
夏場は海の家も点在し渡船も1時間に1本程度出て海水浴客や最近ではジェットスキー、ウェイクボート等をする若者で賑わいます。また潮干狩りも楽しめ、三谷漁業協同組合から潮干狩り専用の船を出してくれるそうです。
さすがにここを見まわり警戒するまでにはまだ至っていませんが、仮に火災発生があれば我が第2分団が出動します。今から10年前にそのとおりこの三河大島で火災が発生した事がありますので、後ほどその時の模様について報告したいと思います。
以上のとおり三谷町の総代区6区と財産区がおおよそ私達の管轄です。
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三河大島は夏場渡船も出ていて若い子たちもジェット、海水浴を楽しんだりしてい ます。 またバーベキューも多くの人がここでするそうです。 ・・・バーベキュ―、、、 火災報告 平成2年8月6日 12時54分;火災発生 現場;三河大島林野火災 放水開始;13時58分 火勢鎮圧;14時20分 鎮火;14時30分 その年4月に消防団に入団した1人の団員がその日、昼頃団員として初めての火災報 を聞き出動を体験しました。 とりあえず、教えてもらったとおりに2班の車庫に行 くと…そこには既に3〜4名の先輩が無線機片手に車両を動かす事無く…遠くの海を 見ていました…? うそ?もしかして?……先輩の指差す方向は、、、 海上約4キロの沖合いに浮かぶ島、、、三河大島、、、。 固まったままの諸先輩は「ほんとに! 島の中腹あたりから煙が出てるな!」と、、、 口々にいうのがやっと、、、どれほど、そこで固まっていたか?記憶にありませんが、 そこへ、造船会社経営の消防団OBの方が現れて、「船、出したるゾ!」と一言。 それからは動きは速かったと思います。 ポンプ・ホース・カンソウ・トビ口等の 必要機材をボートに積み込み…大島へ上陸…波打ち際で足をすくわれ服はビショ濡れ。 ホースを搬送中、砂浜で足を取られコケまくり…ドロドロ。 出火現場にたどり着く までに崖を登り、身体はボロボロ。 水やジュースもありません。もう口は渇くし、 何度逃げ出そうと思ったことか……でも逃げるには約4キロを泳いで帰るしかあり ません(泣) こうなったら、、、一刻も早く鎮火させるしかありません・・・ ・・・そして鎮火後、、、しばらく様子を見て、、、再び船で帰りました。真っ黒 になったホース・よく働いたポンプを洗って、、、「めしでも食うか?」の一言が。 町を望む高台にあるレストランで1杯のビールを口にしながら、三谷の町を眺めると そこには、素敵な夜景が目に飛び込んできました。 本日、2回目の(泣)でした。 後日談… その時の火災で使用したポンプは長時間<海水>を汲み上げていた為でしょうか? それ依頼、まったく調子が悪くなりました。 ※バーベキュー等をする時は火の後始末をきちんとしましょう! 火の用心。
三河大島がいつの頃から三谷に属していたのか? 確かな資料はありません。 ・・・大島に関するこんな逸話があります。 昔、大島が何処の村に属するか解らなかった頃、西の郡の殿様は海沿いの 村々に、ある刻を期し、(元旦 日の出の刻との説もある)大島を目指して 一斉に船を漕ぎ出し、一番早く着いた村のモノとすると、触れを出した。 そこで村々では屈強の若者を選び出しその日に備えた。 その結果は、、、 タッチの差で三谷の船が勝った。(形原の船が一瞬早く着いたが舳先着けの 為に失格したとの説もある) そして、大島は三谷村の領有となった。 この勝因は三谷の慣わしとして、沖から帰り岸に繋ぐときは、必ず次ぎの 出立を考慮して、舳先(へさき)を沖に向け艫(とも)着けとした。 ・・・これを「出船の備え」といいます。 日常生活においても、常に次のことを考え対処する。 例えば履物を脱い だ時は、帰りを考え、向きを変え揃えて置く等、先人の遺してくれた教え (教訓)です。 少し、マニアックなところでは。。。 三谷祭においても、出船のおしえが伝わっています。 試樂祭(土曜日) の晩宮。 西の宮(八剣神社)における山車揃えの場合、上区、中区と 北区、西区の山車の向きが違います(帰りの方向を向いています) また 翌神幸祭(日曜日)の西の宮(八剣神社)から東の宮(若宮神社)への出 発時や、逆に東の宮から西の宮へ帰る時などの山車の向きも必ず次に進む 方向を示して止めています。 神船若宮丸の宮前定位置着は、神幸行列の 神輿先導の際には、一旦入り船(舳先を神前に向け)に着け、行列通過後 出船に直します、その他の到着時は直接出船に着けます。
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| 海陽ヨットハーバー この海岸は、休みになるとウィンドサーフィンなどのマリンスポーツをやる若者でにぎわいます。家族連れもよく見られ地域の憩いの場となっています。夕暮れ時ともなればどこからともなくカップルが現われ愛をかたっている。そんな光景がよく似合う場所です。機会があったら一度ぜひ行ってみてください。 |
海中渡御現場 写真のスロープは三谷祭海中渡御において、ここから山車が曳き上げられます。入水地点はもう少し、奥の方(松風園海上別館のさらに大塚側)です。この道をこのまま星越海岸を抜けて約7〜8分も歩いて行くと海洋ヨットハーバーにたどり着きます。夕日に沈む三河湾は絶景。一度はのんびり歩いてみたい。 |
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仮面分団長の秘密基地 弘法大師像: 1938年(昭和13年4月17日)完成。 ここから見下ろす三谷町の夜景は「知る人ぞ知る」という感じ。昼間は三谷温泉を一望でき遠くの海には三河大島も見る事ができます。またここは昼間仮面分団長の昼寝の秘密基地になっているようです(笑)それからハトの秘密基地にもなっているようです。「ハトの餌が50円だったの知っていますか?」 餌をあげる時は必ず50円お賽銭をしましょう! |
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